院長の知恵袋

長岡謙吉

  • 2014.6.28

 海援隊は日本で初めての会社といわれている亀山社中を前身とした貿易結社で、1865年から1868年の三年間を私設海軍・貿易会社として活動しました。そして、その初代隊長が幕末の志士坂本竜馬でした。

 長岡謙吉は、その後間も無くして起こった竜馬暗殺の後に、二代目海援隊隊長となった人物です。謙吉は武家の出ではなく、医者でした。(海援隊は武家の出身の者だけでなく、商人、医師、庄屋の出身の者と様々な身分の者の集まりでした)

 天保5年、高知城下浦戸町の町医者今井孝純の子として生まれてきました。父の孝純は竜馬の継母の伊与とイトコ同士だったので竜馬とは遠縁にあたりました。

 謙吉は、若い頃は医学を学び父の跡を継ぎ高知で開業していたのですが、西洋医学に興味を持ち長崎に赴きシーボルトに師事していたのですが、この時にキリシタンの嫌疑を受け帰国させられ、長岡郡鹿児村への蟄居を命じられます。その後謙吉は赦免されるのですが、今度は脱藩し再び長崎へ赴き、そこで海援隊に参加することになったのです。

 海援隊に加入してからの謙吉の活躍は凄まじく、通信・事務を一手に引き受け、大政奉還後の竜馬の構想をまとめた「船中八策」を起草したのは謙吉でした。

 明治維新後は、三河県知事に任じ、その後も大蔵省や工部省の吏員を歴任しましたが、39歳の若さで東京で病没するのでした。

ページ上へ