院長の知恵袋

淳于意

  • 2014.7.13

 淳于意は前漢初期の時代の人物で、斉の国で太倉長という役職についていたことから太倉公と呼ばれることもあります。彼は世界で初めてカルテを残した人物とされています。

 淳于意は若い頃から医術を好み、同じ郡に住んでいた陽慶という人物に師事し医術を3年間修行しました。その結果、多くの人々を救う名医となったのですが、度々診療拒否をすることがあったそうです。その中には身分の高い者もいたそうです。

 そして、記録に記述がないので、そのためかはわかりませんが、何かしらの罪で罰せられるために首都・長安に連行されることになりました。淳于意には4人の娘がいました。淳于意が連行される時には、4人の娘は泣いてすがったそうでうすが、淳于意はそんな娘たちに「子を産んでも男がいないと、いざと言うときに役に立たん!」と嘆いたそうです。

 この言葉を聞き、末娘の緹縈は長安に随行し長安に到着すると、時の皇帝の文帝に「死刑や肉形(罪人に入れ墨を入れたり、鼻を削いだり、手足を切断する刑)になったら、父が罪を悔い改める機会を失うので、代わりに私が奴隷となって父の罪を償いたい。」と訴えました。これに文帝はいたく感動し、「かつて夏(古い伝説の国)の時代には、罪人への刑は罪人の服に色を塗りつけて辱めるものしかなかったのに、今はそれよりも重い刑があるにも拘らず犯罪は減らない。これは朕の不徳の致すところだ。」として、他の刑に代えるように詔を下し、肉刑を廃止したと伝えられています。

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