院長の知恵袋

張仲景

  • 2014.6.20

 三国時代で名医としては華佗が有名ですが、この時代には医聖と称えられた名医がもう一人いました。
 名前は張機、字(あざな)は仲景。東洋医学の世界では張仲景の呼び方のほうが一般的で、東洋医学の古典の一つ「傷寒雑病論」の著者として知られています。

 彼は青年時代に同郷の張伯祖から医学を学んでおり、その用薬の判断は師を越えていたとされていましたが、その才は医学だけではなく多才で、また広く知られていたため孝廉という推挙システムにより役人になり、50歳の頃には今で言う県知事に当たる長沙の太守になっていました。彼の人生の前半はいわゆる政治家であったのです。(ちなみに、彼の前任者は三国のうちの一つ、呉の皇帝孫権の父であり、江東の虎と呼ばれた孫堅でした)

 ではなぜ長沙の太守であった彼が医道を志すことになったかというと、当時、急性の熱病であった傷寒という病が流行し、彼の二百に余る程の一族が10年の間に3分の2が死亡し、そのうちの10分の7が傷寒が原因だったのです。これに心を傷めた張仲景は官を退いて医学に専念することになったのです。

 張仲景が遺した「傷寒雑病論」は「傷寒=急性の熱病」と「雑病=その他の病」の処方を中心とした治療法が記されたもので、漢方医学にとって重要な古典として位置づけされています。

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